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院長の日記 BLOG

2013.5.16   『「Welcome to Turkey, ladies and gentlemen」』

おはようございます!!

 

今日も一日全力で顔晴ります!!!

 

 

 

 

「Welcome to Turkey, ladies and gentlemen」

 

 

 

フセインの突然の無差別撃墜予告。残された時間は48時間。

 

さて日本人は脱出できたのか?

 

 

 

 

イラン・イラク戦争の真っただ中の1985年3月12日。イラク軍によるイランの首都テヘランに対する空爆が始まりました。テヘランの町は大混乱。その混乱に拍車をかけるように、イラクのフセイン大統領が声明を発表しました。

 

 

「3月19日20時半以降、イランの上空を飛ぶ全ての飛行機を、イラク空軍の攻撃対象とする」

 

すべての飛行機を撃ち落とすと・・・・。

 

 

突然の無差別撃墜予告に、世界中が大パニックになりました。テヘランには、技術者や商社マン、そして多くの家族など、多くの日本人がいます。残された時間はわずか2日・・・・・。しかし、日本人だけは脱出できない状況に追い込まれていたのです。

 

 

イランに住む外国人は、それぞれの国の航空会社や軍隊の協力で脱出が計られましたが、当時の日本は、イランとの間に定期便を持っておらず、自衛隊を海外で活動させるといった法律もありませんでした。航空会社や自衛隊が救出にいけない日本は、他国に応援を頼みますが、どの国も自国民の救出に手いっぱいで、断られてしまいます。

 

 

 

そのため、在イラン日本人200名以上は、脱出方法が見つからずに生命の危機に瀕していました。

 

・・・・・・・もはやタイムリミットです。

 

 

 

 

万策尽きたイランの日本大使館でしたが、野村豊大使はそれでもネバーギブアップ。野村大使は個人的に親しいつきあいをしているトルコのビルセル大使へ、最後に望みを託しました。友の苦悩を知ったビルセル大使は、無言でうなずくと、本国に電報を打ちました。

 

 

 

「日本人のためにトルコ航空の特別便を飛ばせないか?」

 

 

 

この電報を受け取ったトルコのオザル首相は、一瞬ためらいます。当然です。日本人を優先するとなると、まだイランから脱出できずにいる自国民、さらには救出に向かうトルコ航空機の乗員をも、危険にさらすことになるからです。

 

 

そのとき、オザル首相のもとに一本の電話が入ります。

 

 

「どうか飛行機を出してください」

 

 

声の主は、伊藤忠商事のイスタンブール支店長・森永堯氏でした。森永氏の同僚とその家族34人が、テヘランに取り残されていたのです。森永氏がトルコの首都・イスタンブールに赴任したのは10年前。当時経済官僚だったオザル氏から相談を受け、破綻しかかっていたトルコ経済の再生に尽力してきたのが、森永氏でした。

 

 

ビルセル大使からの要請、そして森永氏からの電話。オザル首相は決断しました。2機のトルコ航空機を、テヘランに取り残された日本人のために派遣してくれることになったのです。

 

 

どこの国も、自国民のことで手いっぱいだったにもかかわらずです。

 

 

トルコ航空では、即座に、この危険なフライトをしてくれるパイロットを募りました。すると、なんとその場にいたパイロット全員が志願したというのです。

 

 

2機のトルコ航空機が215人の在留邦人を乗せてイラン国境を越えトルコ領空に入ったのは、3月19日18時45分。タイムリミットのわずか1時間45分前のことでした。

 

 

トルコ領空に入った瞬間、

 

 

「Welcome to Turkey,ladies and gentlemen」(みなさん、トルコにようこそ)というアリ機長のアナウンスが機内に響き渡りました。わきおこる拍手と歓声。

 

 

助かった・・・・・・。

 

 

人々は、互いに手と手を握り合い涙しました。そこには、乗員と乗客という立場を超えた強い絆が生まれていました。

 

 

 

この自国の航空機に乗れなかったトルコの人たちは、危険きわまりないイランの地を、3日かけて陸路で脱出しました。日本人を優先的に脱出させて、自国民が危ない状況に陥ったにもかかわらず、先に脱出した日本人を非難するトルコ国民は、誰ひとりいませんでした。陸路での脱出を余儀なくされたトルコ人たちを含めてです。

 

 

なぜ、こんな危険な状況のなか、トルコの人たちは、日本人のために動いてくれたのでしょうか?

 

 

その答えは、今から120年以上前の明治時代にありました。トルコの大使は、その理由を短いコメントで表しました。

 

 

「トルコ人なら誰もが、エルトゥールル号の遭難の際に恩義を知っています。ご恩返しをしただけです」

 

 

 

エルトゥールル号の遭難・・・・・・。

 

 

1890年(明治23)9月16日の夜に事件は起こりました。その日は台風にみまわれ、トルコ軍艦エルトゥールル号が和歌山県の串本沖で岩礁に衝突、沈没したのです。死亡、行方不明者587人。生存者69人。生き残った乗組員たちは、傷だらけになりながら、串本の東に浮かぶ大島にたどり着き、救助を求めました。大島の村人たちは、冷たくなった乗組員を人肌で温め、食料を提供し懸命に救助しました。

 

 

 

大島村は貧しい村落でした。特にこの年は漁獲量が少なく、自分たちが飢えをしのぐのに精一杯という状況。しかし、村人たちは、異国の不運な遭難者たちのために、貴重な米を炊き出し、さらに非常食として取っておいたサツマイモやニワトリまで分け与えたのです。

 

 

 

生存者69名は、村人たちの手厚い看護でその後も命を落とすことなく、日本の軍艦によって無事トルコまで送り届けられました。後日、トルコ政府は、治療にあたった医師らに対し、治療費の請求を求めましたが、彼らは「お金なら、被災したトルコ人にさしあげて下さい」と言って、お金を受け取りませんでした。串本町では、この事故で亡くなった人々を悼み、今でも5年ごとに慰霊祭が行なわれ、地元の小学校に通う子供たちの手で、慰霊塔や墓地の清掃も、続けられています。

 

 

以下は、ネジャッティ・ウトカン駐日大使の言葉です。

 

 

「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書を学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。それで、テヘランで困ってる日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」

 

 

 

実は、この話には後日談があります。

 

 

トルコ航空機の日本人救出から14年経った1999年8月、トルコで大地震が発生しました。死者は1万7千人を越え、被害も甚大。このとき、日本政府は、人命救助・物資援助・医療など、さまざまな分野でトルコの復興を支えました。

 

 

「今度は日本がトルコを助ける番だ」と、日本政府に働きかけた人たちがいたのです。そうです。あのとき、大混乱のテヘランからトルコ航空機に命がけで救出してもらった人々でした。

 

 

 

そして、今度は2011年3月11日。東日本大震災・・・・・・。

 

 

トルコの人たちは、すぐに動き出してくれました。被災地に救援物資を届けたり、宮城県で炊き出しを行ってくれたり。そしてこんなやさしい言葉がけまで。

 

 

 

「喜びも困難も共に分かち合おう」

 

 

アジアの東の端にある日本と西の端にあるトルコ。地理的な隔たりはありますが、ありがとうの気持ちは、ずっとずっとつながっていくのです。

 

 

ありがとう。

 

 

 

出典  祥伝社   人生に悩んだら「日本史」に聞こう   著  ひすいこたろう&白駒 妃登美

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してもらったことをいつまでも忘れずに感謝する。

 

 

素晴らしい恩返しです。

 

 

 

最後までお読み頂きありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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